殴ったことは、何とも思わないの。
やりすぎたとか、感じないの? 孝介がその場からいなくなり、段々と痛みが増す。 頬に触れてみる。熱い。 口の中、切れたのかな。血の味がした。暴言は言われたことがあるけど、暴力は初めてだ。
これってDVってやつ……?だよ……ね。私は呆然と立ち尽くしていると、孝介が部屋から出てきた。
ボストンバッグを持っている。 彼は無言で玄関へ向かった。「どこに行くの?」
「気分転換。実家に帰る。今日は実家に泊って、明日は実家から出勤するから。明日は会議で遅くなるし、明後日の朝には帰る」
私の顔一つ見ないで、彼はスタスタと歩き、靴を履き始めた。
私のさっきの言動が原因で実家に帰るってこと? そんなに悪いこと、私、言った? ここはもう一度謝って、引き止めた方が良いの?グルグルと頭の中で何が最善なのかを考える。
「孝介、ごめんなさい。あなたの立場を考えられなくて。謝るから」
彼の背中に伝えるも、振り返ることなく玄関の扉が<ガチャン>と音を立て、閉まった。力が抜けて、その場にストンと座り込む。
しばらく動けなかった。 孝介から連絡がなく、次の日を迎えた。 鏡で自分の顔を見てみると、腫れていた。触れると痛い。 今日は特に何もすることがない。孝介も明日まで帰ってこないと言っていた。お昼を過ぎてもどうしよう。
義母さんには一応、謝っておいた方が良いよね。 謝るのなんて嫌だけど、私のお母さんに直接嫌味とか言いそうだ。深呼吸をして、義母へ電話をする。
<もしもし?>
「あっ。申し訳ございません。今、お時間大丈夫ですか?」
<ええ。大丈夫よ。どうしたの?>
声からして、義母の機嫌は至って普通そうだった。
「申し訳ございません。孝介さん、昨日そちらに帰られましたよね?」
<孝介?帰って来ていないけど……>
えっ?実家に帰るって言ってたのに。
ビジネスホテルとかにでも泊ったのかな。<孝介がどうかしたの?>
「いや。あの……。私が孝介さんの気持ちに寄り添うことができなくて。ケンカのような形になってしまい……」
余計なことを言ったら、また怒鳴られる。
<夫婦ケンカをしたってこと?あなたもいい加減、一流企業の妻として自覚を持ったらどうなの?夫を立てることができなさすぎるのよ>
義母さんの愚痴はさらに続いた。
申し訳ございませんと何度謝ったことだろう。 内容は頭に入ってこなかった。孝介が出勤していなかったら私に連絡が来るだろう。
普通に仕事しているんだろうな。どこかに泊ったんだ、きっと。 お金は持っているはずだから。ふぅと溜め息をつく。
孝介、私のことがそんなにも不快なら、離婚してくれればいいのに。喜んで受け容れるけどな。
ソファに倒れ込み、何もやる気が起こらなくてずっと天井を見つめていた時だった。スマホが鳴っている。
電話? 着信相手を見ると――。「加賀宮さんって本当に不思議な人。誠実で真面目そうなのに、私の前では子どもみたい」 子どもだなんて言って、彼のプライドとか傷つけちゃうかな。「そうだよ」「えっ?」「美月の前だけ、本当の俺」 隣に居る加賀宮さんと視線が合った。 思っているより距離が近いな。思えば、カップルシートに座っているみたい。 彼の真っすぐな瞳と整った顔立ちに心拍数が上がり、顔が紅潮する。 加賀宮さんとは、もっとすごいことしてるのに。 どうしてドキドキしちゃうんだろう。このお店の雰囲気?「あと、亜蘭の前でも素だな」 秘書の亜蘭さん、付き合いも長いのかな。 そんなことを話していると、飲み物と前菜が運ばれてきた。「ちゃんと食べろよ」 加賀宮さんに言われ、パクっと口に運ぶ。「んっ。美味しい!」 痛み止めが効いているからか、頬の痛みも気にならなかった。「ほらっ?肉食べて元気になれ」 加賀宮さんが既に食べやすくなっているお肉を、さらに小さめの一口大へとナイフで切ってくれた。 フォークで目の前にお肉を出され、自然とパクっと食べてしまう。「んんー。美味しい」 柔らかい。 昔、孝介にも高級レストランとかに連れていってもらったことがあるけど、どんなお店の物よりも美味しく感じる。「お前、今まで俺と一緒にいた中で、一番良い顔してるな」 私の食べる姿を見て加賀宮さんは苦笑していた。 「だって、美味しいんだもん」 あれっ?普通に会話してる。 脅されている立場なのに。「今度、美月の作ったものが食べたい」「えっ。最近、ちゃんとしたもの作ってないよ。強制的にお料理教室には通ってるけど」「料理、作るの好きだって言ってなかった?」 あぁ、初めて会ったBARでそんなことを話したっけ?「好きだよ。一人暮らしの時は毎日自炊してた」「じゃあ、楽しみだな」 楽しみって。 私が加賀宮さんに料理を作る日は来るのかな。 彼の部屋は、手の込んだ料理を作れる環境ではない。 気にしなくていいか。 彼は気まぐれでそんなことを言ってるんだろう。 加賀宮さんが頼んでくれたコース料理を食べ終え、彼に車で送ってもらった。「今日はお世話になりました。お医者さんに診てもらって。レストランのお料理はとっても美味しかった」 シートベルトを外し、加賀宮さんと向き合う。「ん
亜蘭さんは医者を送って行くらしい。一緒に部屋を退出してしまった。 また加賀宮さんと二人きりの空間になる。「加賀宮さん、ありがとう。あの……。お金、加賀宮さんに渡せば良いの?ていうか、今の診察は保険適用だよね?今度でもいいかな」 お金、どうしよう。 今、お財布の中は小銭しかない。 医療費だって孝介に相談しないともらえない。「そういうところ、しっかりしてんのな。金は要らないよ。俺の自己満だし」 私の発言に彼はクスっと笑った。「でも……」「痛いんなら、早く薬飲めよ」 彼は部屋の隅にあった小さい冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、渡してくれた。「ありがとう」 こんなに優しくして、何か裏があるのかな。何を私に求めているんだろう。「ちょっと電話してくるから、待ってて」 彼は部屋から出て行った。 仕事の用事かな。 ソファに座って彼が戻って来るのを待った。 しばらくすると加賀宮さんが部屋に戻ってきた。 今日は変なこともしないで、これで帰してくれるよね。「じゃあ、行くよ?」「うん」 てっきり家に帰れるのかと思っていたが――。「なに、ここ?」 彼に連れてこられたのは、とある高層ビルだった。「ついて来て」 加賀宮さんの後ろを追って、エレベーターに乗る。 二十階でエレベーターが止まった。 エレベーターを降りると、目の前にお店だと思われる雰囲気の自動ドアがあった。 ドアが開き、数歩歩くと――。「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」 スーツを来たウエイターさんらしき人が出迎えてくれた。「こんばんは」 加賀宮さんは普通に挨拶をしている。 店内に入ると、クラシックのBGMが流れていた。彼らの後ろを歩く。「こちらでよろしいでしょうか?」「はい」 店内は個室になっていた。 何ここ。どういうお店? こんなお店、来たことがない。 個室だけど、目の前はモニターになっている。 テーブルと二人掛けくらいの大きさのソファ、一つずつしかない。 これって……。 「座って」 彼に言われ、ポスっとソファに座る。 私の隣に加賀宮さんも座った。「では、お飲み物をお持ちしますね」 部屋まで案内してくれたウエイターさんが扉を締めた。「ねぇ。何ここ?」「会員制のレストラン。部屋は俺が選んだ。なんか
「なんで……。優しくするの?優しくなんてしないでよ……」 涙は止まらなかった。「おい、泣くなよ。キズが酷くなる」 私の涙を見て、彼は彼らしくない反応だった。戸惑っている。加賀宮さんでもこんな顔するんだ。 加賀宮さんは私が泣き止むの待って「よし、行くぞ」 そう言って立ち上がった。「どこに行くの?」「秘密」 秘密って、何をする気なんだろ。 彼と一緒にアパートを出て、数分ほど歩くと駐車場があった。 そこに停めてあった、いかにも高そうな外車の助手席に案内をされる。「これ、加賀宮さんの車?」「そうだけど」 やっぱり不思議な人。 どうしてこんな高級車に乗れるのに、あんな古いアパートに住んでいるんだろ。何か理由でもあるのかな。 加賀宮さんの運転する車に乗るのは初めてだ。 強引な運転をしそうなイメージだったけど、そんなことなかった。意外と安全運転だ。「加賀宮さんって、運転乱暴そうなイメージだったけど、きちんと運転できるんだね」「なんだよそれ。酷いイメージだな」 ハハっと彼は笑った。 加賀宮さんの前では、普通に話せる。 昔から知り合いだったみたいに。 彼は私のこと、前から知っているみたいだし……。 私が覚えていないだけで、本当にどこかで会ったことがあるのかな。 そう言えば……。「ねぇ。下の名前教えてよ?加賀宮……なんて言うの?」「……。まだ秘密」 まだ秘密?どうして? もし有名人だったら、インターネットとかで本名を検索したら出てくるもんね。いつかは教えてくれるのかな。「着いた」 そう言われ、着いた先は……。「あれ?ここって……」 ここの地下駐車場は見覚えがある。 エレベーターに乗り、加賀宮さんの後ろをついて行くと、恥ずかしくて思い出したくもない場所に着いた。 ここは、Love Potionという不思議なカクテルを飲まされて、初めて彼に身体を預けた場所。 室内は変わっていなかった。大きなソファにパソコン、デスクが二つあるだけのシンプルなオフィスだ。「ソファに座って」 加賀宮さんに促され、ポスっと座る。 私はここで……。 この場所で加賀宮さんとあんな卑猥なことしてたんだ。「思い出したの?美月、顔が赤いけど」「ちがうっ……!痛っ……」 顔の筋肉が大きく動き、頬に痛みを感じた。
「早くどいて。今日は私に何の用事?またいつものように……」 いつものように彼に身体を預ければいいの。「シャワー浴びてくる。予想よりも帰るのが遅くなった。ベッドにいて?」 彼は着ていたスーツを脱いだ。「わかった」 私はベッドへ行こうとしたが、加賀宮さんに手を引かれ止められた。「なに?」「シャワー、一緒に浴びる?」 彼の言動に「浴びるわけなっ!痛っ……」 呑気な彼の言葉に思わず大きな声を出してしまった。 口角が急に上がったため、叩かれた頬に痛みが走る。頬に手を当ててしまった。「どうした?」 様子がおかしい私に加賀宮さんが声をかけてくれたが「なんでもない。シャワー、浴びてきて」 孝介に殴られたとは言えない。「どこか痛いの?」 彼は顔を歪ませている私を心配してくれているみたいだ。 そっか。どっちにしろ、こんな感じだったらキスだってできない。彼に身体だって預けられない。「顔を……。ぶつけたの。だから痛いだけ。ごめんなさい。やっぱり今日は私、何もできない。許して下さい」 彼はそんなことお構いなしに、契約違反だと責めるのだろうか。それとも――。「顔をぶつけたって、どこにぶつけたんだよ。ちょっと見せて」 隠している私の手を退けようとした。「イヤ!」 抵抗しようとしたが「命令」 彼の一言で身体の力が抜けた。 加賀宮さんが私の頬を見る。「触るよ」 そしてそっと優しく彼の手のひらが触れた。「熱感ある。化粧で隠れているけど、よく見ると腫れてる」 彼はそう言い、私をベッドに座らせた。「ちょっと待ってて」 彼は冷蔵庫の中を見て、何かを探している。「大丈夫だから」 私の言葉には返事をしてくれない。 彼はアイスノンをタオルで包み、私の頬に静かに当てた。「しばらく冷やして」 加賀宮さんは、私の隣に座った。「ありが……と」 冷たくて気持ちが良い。 適切な処置をしてくれた彼に戸惑う。「正直に言え。どこでぶつけた?九条家のお嬢様だろ、どうして医者に行かない?旦那は何か言わなかったのか?」 返答に困る。どうしよう。なんて言えばいいの。 無言の私に「まさか、旦那に殴られたとかじゃないよな?」 ピクッと身体が反応してしまった。 YE
「加賀宮さん!?」 電話、出なきゃ。「もしもし?」<……。久し振り> 久し振り!?「久し振りって、数日前まで会ってたけど?」<俺にとっては久し振りなんだよ>「なにそれ?」 この人もかなり俺様だなって、今日もまた呼び出し?<今から来て?>「はぁっ?今からって。もう夫は出張から帰ってきてるから。そんなに自由には……」<お前の旦那、今日は帰らないよ?> どうしてわかるの?「どうして……。わかった。行くけど」 隠しカメラとか盗聴器とか私に仕掛けられてる? 孝介が今日帰らないことを知っているから、きっと加賀宮さんは私を呼び出すんだ。<今からタクシーを向かわせるから。十分くらいで着くと思う。俺のアパートに来て>「ちょっと!急すぎっ!」<じゃあ。待ってるから> 私が反論しようとする前に電話が切れてしまった。 今、何時だろう。十五時?こんな時間に何の用?またあんなことをするつもりなの。 とりあえず身なりを整え、軽く化粧をする。 どうしよう、引っ叩かれた頬が痛い。 薄くファンデーションを塗ることしかできなかった。 加賀宮さんの指示通り、タクシーに乗り、彼のアパートに向かう。 いつも通り部屋をノックすると「お疲れ様」 加賀宮さんがドアを開けてくれた。 あれ? 今日は初めて会った時と同じようなスーツを着てる。さっきまで仕事だったのかな。「お邪魔します」 部屋に入る。 しかし――。 玄関で靴を脱ぎ、一歩踏み出したところですぐ加賀宮さんに腰を引き寄せられた。「……!?なに?」 彼はジッと私を見つめた。「お前……。飯、食べてんの?」「えっ?」 ご飯? そういえば最近あまり食欲がない。 というか、一週間千円生活で最近お粥とかしか食べてなかった気がする。「俺と初めて会った時より痩せた。もともと細いなって思ってたけど」 そんなに痩せたかな。まぁ、ご飯食べなきゃ痩せるよね。「俺のせい?」 彼は少し首を傾けた。 加賀宮さんと契約を結んだことは確かに不安でしかないけれど。 加賀宮さんのせいというよりは、明らかに家庭環境にあると思う。「加賀宮さんのせいじゃ……ない。食欲がないだけ。私にだっていろいろあるのよ」 孝介からお金をもらえず、食材が買えなかっただなんて言えない。 別に加賀宮さんに媚を売
殴ったことは、何とも思わないの。 やりすぎたとか、感じないの? 孝介がその場からいなくなり、段々と痛みが増す。 頬に触れてみる。熱い。 口の中、切れたのかな。血の味がした。 暴言は言われたことがあるけど、暴力は初めてだ。 これってDVってやつ……?だよ……ね。 私は呆然と立ち尽くしていると、孝介が部屋から出てきた。 ボストンバッグを持っている。 彼は無言で玄関へ向かった。「どこに行くの?」「気分転換。実家に帰る。今日は実家に泊って、明日は実家から出勤するから。明日は会議で遅くなるし、明後日の朝には帰る」 私の顔一つ見ないで、彼はスタスタと歩き、靴を履き始めた。 私のさっきの言動が原因で実家に帰るってこと? そんなに悪いこと、私、言った? ここはもう一度謝って、引き止めた方が良いの? グルグルと頭の中で何が最善なのかを考える。「孝介、ごめんなさい。あなたの立場を考えられなくて。謝るから」 彼の背中に伝えるも、振り返ることなく玄関の扉が<ガチャン>と音を立て、閉まった。 力が抜けて、その場にストンと座り込む。 しばらく動けなかった。 孝介から連絡がなく、次の日を迎えた。 鏡で自分の顔を見てみると、腫れていた。触れると痛い。 今日は特に何もすることがない。孝介も明日まで帰ってこないと言っていた。お昼を過ぎても家政婦さんがこないということは、本当に帰ってくる気はないのだろう。 どうしよう。 義母さんには一応、謝っておいた方が良いよね。 謝るのなんて嫌だけど、私のお母さんに直接嫌味とか言いそうだ。 深呼吸をして、義母へ電話をする。<もしもし?>「あっ。申し訳ございません。今、お時間大丈夫ですか?」<ええ。大丈夫よ。どうしたの?> 声からして、義母の機嫌は至って普通そうだった。「申し訳ございません。孝介さん、昨日そちらに帰られましたよね?」<孝介?帰って来ていないけど……> えっ?実家に帰るって言ってたのに。 ビジネスホテルとかにでも泊ったのかな。<孝介がどうかしたの?>「いや。あの……。私が孝介さんの気持ちに寄り添うことができなくて。ケンカのような形になってしまい……」 余計なことを言ったら、また怒鳴られる。<夫婦ケンカをしたってこと?あなたもいい加減、一流企業の妻